西岸寺の資料館ー西岸寺の寺宝及び関連資料

ご挨拶
 西岸寺の古文書は昭和22年の類焼による破損が著しいため、長い間一部の研究者の方にしかお見せすることができませんでした。
西岸寺に伝わる資料を整理・保存すると同時に、もっと気軽にどなたでも見て頂けるようにとの思いから作成しました。
 この資料館を作成するにあたって、古文書の翻字にご協力いただきました府立総合資料館の職員の方には厚く御礼申し上げます。

西岸寺の寺宝について

戸時代、親鸞聖人ゆかりのご旧跡に紹介され『高祖聖人皇都霊跡志』(僧純著)などから沢山の参拝者が来られたことが推察されます。このような参拝の方々に親鸞聖人と玉日姫が結婚されたいわれをお話するために木像や巻子、掛け軸などが整えられたと思われます。         

西岸寺の寺宝は3種類に大別されます。
  • ①親鸞聖人と玉日姫の結婚の宗教的意義を伝えるもの・・水晶、六角堂夢告の掛け軸、親鸞聖人と玉日姫、九条兼実のご木像
  • ②歴代住職と本山との関係を伝えるもの・・住職系図、ご門主の絵像、四幅の御絵伝、蓮如ご木像
  • ③女人往生を説くために用いられたもの・・九相図、法然上人ご絵伝、玉日姫六字名号
以下にその一部を公開いたします。

1、親鸞聖人と玉日姫の結婚の宗教的意義を伝えるもの


<水晶の玉>  (西岸寺蔵)

赤山明神で出会った女性から手渡されたとされる「水晶の玉」
親鸞聖人が、比叡山での修行を止めて法然上人のもとへ行き、玉日姫と結婚するようになった契機はいくつかありましたが、この「玉」のお話もその一つです。

その女性が言われたことは

「これは太陽から火を取る玉です。この世界の中で太陽より尊いものはなく、また土石より低く卑しいものはありません。けれども太陽の火がそのままで、地上の灯となることはありません。卑しい土石の玉に映ってこそ闇夜を照らす大事な灯となるのです。仏法も(比叡山のような)高い峰の頂きに湛えられている水のようでは、どうして人々のためになるでしょうか。低く卑しい谷に流れ落ちてこそ、一切衆生を潤すことになるのです。(中略)玉と日が相重なることの理由を、今はまだご存じないでしょう。千日後には必ず身の上に思い当たることがあるはずです。」と言い終わると「玉」を置いて姿を消してしまいました。 その後、親鸞聖人29歳の冬の頃、九条兼実殿下の息女と結婚することになったとき、姫の名前が玉日ということに思い当たり、このことが、太陽の火を清らかな玉に移して一切衆生の迷いを照らし、五障三従の女人をはじめすべてを引導せよという教えであったことに初めて気づかされました。(後略)

<六角堂の夢告と九条兼実、親鸞聖人、玉日姫のご木像の写し> (西岸寺蔵)

上部に六角堂で救世菩薩から授かった夢告 真ん中上から、親鸞聖人、九条兼実、玉日姫のご木像の写しが描かれています


六角堂で救世菩薩から授かった夢告>
もし、あなたが結婚したいと望むなら
私が玉のような女性となって結婚しましょう
一生の間あなたを荘厳して、臨終の時に
あなたを引導して極楽に生まれさせましょう
続いて救世菩薩は「是我が誓願なり、善信(親鸞)よ、
この文の意を一切群生に説聞しむべし」とおっしゃられました。

親鸞聖人が玉日姫とご結婚されたいきさつ 『正明伝』より 
九条兼実 「法然上人の大勢の弟子たちは、すべて行い清く智慧すぐれた出家の僧侶ですが、私だけが在家です。出家の念仏と我ら在家の念仏      とでは、その功徳に違いはあるのでしょうか。」
法然上人 「阿弥陀様の救いは、出家と在家とは全く同じであり、功徳に優劣はありません。」
九条兼実「(中略)念仏の功徳に優劣がないのであれば、弟子の中より一人、一生不犯の僧を差し向けて頂いて末代の在家の者が、男も女も差       別なく往生できる模範にされてはどうでしょうか。」
法然上人 「なるほど、そのとおりです。では綽空(親鸞)よ、貴方が今日から兼実公の仰せに従いなさい」
親鸞聖人は初めは断ったものの、法然上人の強い勧めに応じ遂に九条兼実の娘、玉日姫とご結婚されることとなりました。

 

<親鸞聖人御木像>  (西岸寺蔵  江戸時代後期 寄木造  高さ28cm  幅11cm)

この木像は、昭和22年の類焼により損傷していますが、親鸞聖人(しんらんしょうにん)のトレードマークである帽子(もうす)=えり巻きが確認できます。また、御木像の裏には「愚禿善信(ぐとくぜんしん)」の文字が読み取れますこのことから、<祖師聖人草鞋御木像略縁記>の御尊像かと思われます。また、№18「六角堂の夢告と親鸞聖人、九条兼実、玉日姫ご木像の写し」に描かれているご木像であったと思われます。御木像の原形を知る住職の話しによると焼ける前は台座と共で40cm位の高さでした

 <親鸞聖人御木像> 

 

<親鸞聖人御木像 裏部分>










<見真大師御自作草鞋竹杖の御尊像略縁記> (西岸寺蔵)


この略縁起は比較的新しいもので、昭和22年の類焼の際焼け跡から取り出したものを現住職が印刷し直したもので「能荘厳院殿玉日姫君御自作御尊像略縁記」と共に書かれているものです。もとの原稿には、最後に「第三軍道(通りの名称)云々」というように道案内の語句が書かれていたそうです。(住職曰く)西岸寺のある伏見区深草は、明治41年に第16師団司令部が置かれたところで軍用道路として第一、第二、第三軍道と呼ばれる道が作られました。現在でもその呼び名は残っています。この「第三軍道云々・・・」と言う語句から考えるとこの略縁起は早くても明治41年より後に制作されたものだということがわかります。この御尊像は現在行方不明です。

 

 

<九条兼実御像>  (西岸寺蔵 江戸時代後期  木造 高さ25cm   幅11cm)


この御木像は、裏に「善信造」と言う文字があることから、『月輪殿御像略縁起』に書かれている聖人御自作の御像と思われます。
火災により損傷していますが、衣冠(いかん)のお姿であるのがわかります。
また、「六角堂の夢告と親鸞聖人、九条兼実、玉日姫ご木像の写し」に描かれているご木像であったと思われます。               

   

 

                                      



裏の文字の拡大














<親鸞聖人御作九条兼実像略縁起> (西岸寺蔵)

「小御堂(こみどう)拾有九世現職の記」と書かれていることから龍田法師によって書かれたものと思われます。火災により損傷がはげしく読めない部分があります。

概略:聖人61歳の時、御帰洛なさって深草の□□殿(花園殿)に入られたところ、玉日姫のお墓は、あれはてていました。
聖人は「つたへこし露の昔の路に帰ぬ 今日深草の苔の衣手」と詠まれ、
昔を思い出され、月輪殿が御家にも御身にも変えて聖人を保護なさった莫大の御恩を感謝されました。
一つには月輪殿の御恵を報ぜんがため、二つには在家往生(ざいけおうじょう)の手本にと思われ、聖人自ら月輪殿の御姿を御彫刻なさいました。
この月輪殿の御像は、聖人の御命代わりの御姿ともいえます
                               小御堂拾有九世現職の記


本文:□□□□□□□□□□□□祖師聖人の御作也・其由来は・聖人御年六十一歳にして・御帰洛在(ましまし)こしがたを・したひて・深草□□殿に・入(いら)せ玉へば・もの代り・星移り□  空(むなしく) 玉日君の御塚には・艸おひしげり・苔蒸て・いと蕭條(しょうじょう)た□秋の夜に・深草の里の露しげく・嫋々(じゃくじゃく)たる野路(のじ)の西風は・やどあれぬとて・うらみがちなる・虫の音を吹送れば・いとど哀れを催しつつ・隈なき月に・昔をおもひ出せられ・つたへこし露の昔の路に帰ぬ今日深草の苔の衣手
と・御歌一首詠し玉ひ・それ夫より月輪殿の・莫大の御恩を・思召・終夜(よもすがら)・御経御念佛あらせられ・
扨(さて)・一つには彼御恵を報ぜんため・二つには在家往生の標(てほん)にもと・思召て・御彫刻ましましたる・尊像なれば・謹みて拝礼あらふ扨(さて)・御開山御流罪の時・いかなるうき御身ともならせ玉ふべきを・比兼実公御家にも御身にも代て御保護なされたればこそ・聖人の御身・つつが恙なくわたらせ玉ふ・然(しかれ)ば御開山の・御為には・御命代りの・御姿とも存ぜられ・彼御恩を・頭にいただき・つつしみ謹て拝礼あろう  略縁記終 小御堂拾有九世現職の記


<玉日姫御木像> (西岸寺蔵 江戸時代後期寄木造彩色 高さ22.5cm 幅33cm)

内陣の親鸞聖人の掛け軸の前に安置されています。十二単に緋の袴を召されています。両手は近年の修理によるものですが、『能荘厳院殿玉日姫君御自作御尊像略縁記』に「右の御手は念珠を持たせられ左の御手は開蓮の御有様これ即ち臨終引導生極楽の御誓願にて建仁三年四月五日の夜 寅の時聖人御夢想の告命に符合し自ら本地の御尊容を示したまふ御尊像なり」とあります。「六角堂の夢告と親鸞聖人、九条兼実、玉日姫ご木像の写し」に描かれているご木像であったと思われます。

    






<玉日姫御廟所>(西岸寺境内)

玉日姫(たまひひめ)のお墓は、西岸寺の境内にあります。 お墓を取り巻く石の囲いの柱には、さまざまな時代の全国各地の信徒の方々の名前が彫られています。西岸寺は、このような信徒の方々によって支えられてきました。

<能荘厳院殿玉日姫君御自作御尊像略縁記> (西岸寺蔵)

この略縁起は、『見真大師(けんしんだいし)御自作草鞋竹杖の御尊像略縁記』と同じ紙に書かれているものです。西岸寺蔵の<玉日姫(たまひひめ)御木像>のことと思われます。

<小御堂古本尊略縁起>   (西岸寺蔵)

概略:御厨子の中に安置されている阿弥陀如来は、聖徳太子が御父用明天皇の御追福のために作らせたもので、故あって月輪(つきのわ)禅定兼実公(ぜんじょうかねざねこう)が深草の小御堂(こみどう)に安置されたものです。
聖人が越後へ下られる時、この如来像は涙を流されたと言われています。
このことから「落涙の阿弥陀如来」と称されました。
また、天文年間に小御堂が類焼したときに焼残ったことより、「焼残の本尊」とも称されています。
月輪殿と聖人、玉日姫の御三方が御給仕なさった阿弥陀如来です。
本文:御厨子の内に安置し上るは小御堂・古本尊(阿弥陀)□にして・辱(かたじけなく)も  聖徳太子の□□□   なり・其由来は・御父用明天皇の・御百ケ日・御追福の為にとて・一□(とう) □□□    の御作なり・故ありて    月輪禅定兼實公・深草の小御堂に・御安置      依之(これによりて)  御開山・建永元□の冬より・御給仕ましまして・翌年三月・越后へ御下り□時・比如来にむかは向せられ・そ□□と・御いとまごひ・あらせられしかば・不思議なるかな□(比の)如来・急(たちま)ち・震(ふるい)動せられ・両□御眼より・玉の如きの御涙を・落(ながさ)せ玉ふ・依之(これによりて)・世に名高□□(ふか)艸の・落涙の  阿弥陀如来と・称したてまつる上る・扨(さて)  玉日の君も比(この)如来の御前にて・称名と□□□    御往生ましますところ也・其後天文年間・小御堂類焼(せつ)火の中に・やけのこらせ玉ふ・(是)  によりて・又焼残の本尊と(も)称し上る・然れば  月輪殿と□□御開山と云・  玉日の君と云・三御所・御給仕の如来にして・殊に・火□中より・出現し玉ふといへば・誠我等故に・等活・黒縄・焦□熱・阿鼻の・炎にも入玉ふ御姿を・今此に・うつして・拝上るぞ□存ぜられ・骨身に・しみじみと拝礼あらふ

<版木>  (西岸寺蔵 木造 横 48.5cm 縦 34cm)

「城州伏見深草 小御堂西岸寺」の「玉日君(たまひぎみ)御方 御墳墓」と書かれています。西岸寺の観光案内のようなものらしく、簡単な地図になっています。五條橋通より伏見街道筋(ふしみかいどうすじ)(本町通)を南へ、大仏、東福寺、いなり神社を過ぎて藤森神社へ行く途中に入り口の門が描かれています。これは、現在の門の場所とほぼ同じ位置にあります。大仏というのは、京都のわらべうたにも出てくる方広寺の大仏さんのことだろうと思われます。大仏は、寛政十年(1798)に落雷で焼失しているので、この版木はそれ以前に作られたものと考えてもいいのではないでしょうか。



2、歴代住職と本山・他寺院との関係を伝えるもの


<龍田絵像> (西岸寺蔵)

<歴代住職系図 開基~第20世> (西岸寺蔵)

この系図は、西岸寺第19世「龍田」の書像の裏に書かれたもので、修理の時に二幅に分けられました。外題には、「小御堂(こみどう)十有九世龍田書蔵」(釈)見□とあります。〔( )内は字が欠けていますがなんとか判読できます。□以下は紙が破れていて見えません。〕第20世「見龍」の所に『拙僧(せっそう)』という文字があることから「見龍」によって作成されたものと思われます。開基「有阿弥(ゆうあみ)」から「見龍」まで、鎌倉時代半ばから江戸時代後半まで約550年間の歴代住職の法名が書かれています。


西岸寺系図と関連事項
和暦と西岸寺の住職の欄は、掛け軸にかかれている内容です。出来るだけ掛け軸の語句を使っていますが、漢字は現在使用されているものになおしました。( )について・・字が欠けていても、一部分が残っていたり文意の上から判断できるものについては( )内に記入しました。□について・・・・紙が破れて字が読めなくなっている部分です。南北朝時代は、系図に書かれている北朝の年号を使用しています。

和暦 西暦 西岸寺の住職 関連事項
(鎌倉時代)
文永 6年
1269年 (開)基 □(殿)諸(大夫)  法名有阿弥
 8月22日 行年93歳  
   俗名田村采女正光隆
 
正安 2年
1300年 第2世 祐應  
    3月6日  行年61歳
 
(南北朝時代)
文和 3年
1354年 第3世 祐順
    9月8日  行年62歳

正長 元年
  
1428年 第(4世)祐西
   2月11日  行年80歳
 
宝徳 2年
1450年 (第)5世 祐義
    5月4日  行年43歳
 
文明18年 1486年 第6世  祐玄
    霜月29日 行年58歳
 
天正 5年 1577年 第(7)世 祐誓
   正月2日  行年98歳
 
(江戸時代)  
慶長 2年
1597年 第8世  祐浄
   7月7日  行年53歳
此時 東本願寺ト成
東本願寺の成立は1602年ですが、『本願寺年表』によると1592年に教如上人は本願寺を継いだものの、翌1593年には准如上人がこれに代わり、教如上人は「御堂の北に退隠」『言経卿記』せられたとなっている。

台東区『浄土真宗明細簿』の正到山西岸寺縁起には
開基法名長圓京都深草西岸寺発生祐浄ノ長男報恩寺十四世宣了ノ法弟慶安三年九月十八日武蔵國豊嶋郡江戸神田字於玉ヶ池ニ於テ一寺創立本山十三世宣如法主ヨリ號ヲ西岸寺ト給フ」
また、「堂内 九条兼実女玉子(日)像安置」とある
(報恩寺は性信(親鸞聖人の弟子)開基のお寺)

「枚方市史」西願寺縁起より
中興開山慧厳の孫、裕信が伏見西岸寺より入寺、第2世住職となる(裕信は文禄元年・1592年、徳川家康より顕如門主を通じて恩賞を賜ったという記録あり)

寛永6年 1629年 第9世  義慶
  3月11日  行年56歳
 
明暦2年 1656年 第10世 義道 
   正月25日 行年53歳
 
天和2年 1682年 第11世 祐諦
  6月13日  行年67歳
 
宝永4年 1707年 第12世  義空
   2月5日  行年48歳
  此代 本堂建立
 
享保16年 1731年 第13世  西順
  10月26日 行年81歳
此時帰参ス 本堂焼失
本堂にある阿弥陀仏像の背面に「城洲紀伊郡深草西岸寺西順」の銘があります
安永2年 1773年 第14世  知順
  8月20日  行年64歳
「枚方市史」西願寺縁起より
延享4年(1747)第6世裕貞伏見西岸寺より入寺、その際伏見西岸寺より「六字名号」(蓮如筆)と木仏 寺号下附とあり、西願寺は小御堂西岸寺の分寺になり、山号を光明山から深草山と改めた
安永7年 1778年 第15世  快應
 8月26日  行年26歳
 
安永8年 1779年 第16世  義順
 8月22日  行年31歳
 
    第17世  義諦
   本堂再建ノ後退寺
 
寛政11年 1799年 第18世  覺圓
10月18日 行年54才
藝州加茂郡川尻真光寺舎弟
實ハ同寺門徒治郎兵ヱ事也
真光寺には、西岸寺に関係のある古文書があります。
平安時代末に 俊乗坊重源(ちょうげん)の弟子 教念が開いた華厳宗「守護之森東福寺」というお寺でしたが
寛永七年(1630年)に浄土真宗に改宗しました。
寛政11年









文政3年 庚辰
1799年









1820年
第19世  實情院龍田法師
極月19日入寺 行歳35   文如上人様之内命ニヨリテ 野州朝日照願寺ヨリ當寺江傳住実ハ江州高嶋深溝田中性源義成二男也 
御開山様御影 文如様御影  四幅御繪傳 永代国絹袈裟  以上御免之儀ハ龍田法師之働也実ニ當寺中興之開基也

實情院龍田法師往生   
   5月8日 行年56歳
文如様御影・四幅の御絵伝は西岸寺に伝わっています。
文政3年 1820年  第20世 見龍
  前住実子5月住職行年21  前住之働ニ仍テ拙僧江
  永代国絹袈裟並列座御免
甲子年五月□三日付、釋廣如(本願寺第20代門主1798~1871)の法名授与状が西岸寺に伝わっています
第20世以降の系図は現在のところ行方がわからなくなっています。
西本願寺に問い合わせたところ、明治時代の記念法要に際して各寺院が提出した資料が
残っていました。
この時代、住職はおらず代務住職になっています。
以下の通りです。

明治31年~明治40年   西福寺(代務)
明治40年~大正3年   正蓮寺(代務)
大正3年~昭和14年    西福寺(代務)
昭和17年~昭和28年   勝龍寺(代務)


第20世 見龍 法名授与状


                         

<蓮如上人御像> (西岸寺蔵)

この御木像は『中興上人(ちゅうこうしょうにん)御木像縁起』に書かれている蓮如上人と思われます。
お座りになって合掌されている御姿です。
手と鼻は近年の修理によるものです

江戸時代  寄木造  彩色  

高さ 20.5cm  幅  19.5cm  

台  横24cm      縦16.5cm


<中興上人御木像縁起> (西岸寺蔵)

昭和22年の類焼の時に上の部分が焼けてしまっています。
西岸寺第6世 祐玄の名前がでてきます。
概略:御戸帳の中に安置されている御木像は、俗に「両様の御木像」といわれるものです。
蓮如上人85歳の3月中頃、深草の祐玄は上人の御往生(ごおうじょう)
の近いことを感じられ、上人のお姿を木像にして残しておきたいと、願われました。
上人がお許しになると、祐玄らは大坂から山科へ半分出来上がっている御木像を運んできて、ようやく24日の申の刻に出来上がりました。
上人は出来上がった御木像を御覧になり、「出)る息入るをもまたぬ我が命、急てたのめ弥陀のちかひを」と歌をお詠みになりました。
御木像の目は今にも動くかと思われ、口もとは今にもしゃべり出すかのようで、蓮如上人に直々にお会いしているようです。








本文:みとちょう御戸帳の内に安置し上(たてまつ)るは・俗に両様の御木
(像)とて・世にも名高(なだかき)御尊像也・其由来を尋
(奉)るに・信証院殿蓮如上人・御歳積て八十
五歳・はや三月(やよい)の中旬(なかごろ)となれは・聖衆倶會の
□ を・待玉ふ計(ばかり)也・深草の祐玄・御枕元に依
□窺(うかがい) 上れば・御息も絶々に・南無阿弥陀仏 
南無阿弥陀仏と・称(となえ)玉ふ・御姿を拝し上(たてまつ)るに
□ の・道理こそあれ・北越の雪には・御自を晒(さらし)・
□の雨には・沐浴(ゆあみ)・在(ましまし)つつ・聞入れのな井・凡夫
□信心決定・させたいとの・御心つかひ・今は・か
□の御よわい齢なれは・もはや最早・御快気は・あるまじ
□□□□ 念仏の大導師に・今わかれ別奉るかと
□へば・不計(はからず)・むせかへる聲に・驚かせられて・
□を上げ玉ひ・たれ誰なるぞとの御尋(おたずね)に・祐玄
□□□□おそれながら・御往生近拝(ちかくおがま)れ玉ふ・夫(それ)につ
□ (て)・日頃は・尊師の御姿を・刻(きざみ)て下し玉
□と・所望し奉りしかども・比の期になり    
□□□□ か願んやと・涙とともに・申上れは・
□ 如上人・重き御枕を上け玉ひ・其事なり・
□□□□ 重望(かさなるのぞみ)・もだしがたければ・近頃・我姿
□□□□ かかりたれども・今は・年よりて・力うすく・
(称)名に・暇(いとま)なければ・半にして・止ぬ・我なからん
□ (ら)よきに・為(なせ)よとの玉ふ・時に・祐玄等
□□□□ こそといそぎ急て・大阪へ下り・彼(かの)半分出
□□□□玉ふ・御木像を・山科江御供(おんとも)申・
□□□□御存命の内にと・忝(かたじけなく)も  
□□□□上人を・始奉り・深草の祐玄等数多(あまた)
□□□□弟子方集り玉ひ・漸(ようよう)廿四日の申の刻
□(来)あがらせ玉ふ・此に 

□□□□上人・この御木像を・御覧ましまし・
   いず出る息・入をも・またぬ・我命・
       急(いそぎ)て・たのめ・弥陀の・ちかひを
□□□□歌一首詠じ玉ひ・翌廿五日・念仏の
□□□□もろともに・極楽浄土へ・帰せ玉ふ・誠に
□切の尊像なれば・謹で拝礼あらう
(参)詣の皆々・拝まれた□・御目ただいま只今
(働く)かと思われ・御口もとは・もの玉ふ言がごとく・
□百有餘年・生れ・おくれたれども・直々に
蓮如上人江・御対面・申し上る・思をなし・(謹)んで拝禮 


他に西岸寺蔵のものに<親鸞聖人伝絵>・<釈善如絵真影>・ <前住文如絵像>・ <本願寺良如絵像> などがあります。




真光寺様について  

第十八世「覚円」の里寺 広島県呉市川尻町
はじめ、平安時代末に 俊乗坊重源(ちょうげん)の弟子 教念が開いた華厳宗「守護之森東福寺」というお寺でしたが
寛永七年(1630年)に浄土真宗に改宗。

広島県賀茂郡の『川尻町史』(昭和2年)(抜粋)によると
『天正二年 教念 開基。今より344年なるも度々火災に罹り記録を焼失しているが、高島より移転したる人なりと云う。
教念という人は元武士の出家したる人にて大豪傑なりし人なる事は前後の事績により推知し得べし。
後年、初代 一行 なる人あり、大徳にして光明寺僧叡師 の高弟なり。現代住職は17世なり。
当寺の弟子に 覚円 という大徳あり。森立花氏の人。京都深草西岸寺18世の住職となる。
西岸寺は、玉日姫(たまひひめ)を奉せる古跡なり。
覚円 師が恩寺 真光寺 へ譲りたる高祖聖人御木像(こうそしょうにんごもくぞう)並びに記録一巻あり。』

<守護之森東福寺縁起>(真光寺蔵)
この縁起は、傷みがはげしいため現住職の祖父にあたる方が書き写したものだそうです。

概略
仁安2丁亥(1167)年、宋の国に遣わされる俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)を
見送りにきた弟子の教念(重智)は、浪速から瀬戸の芸州女猫というところまで来たところで
風浪に苦しむ重源一行のために意を決して上陸し、守護之森に草庵を結びました。
そして、東大寺と興福寺の各々一字をとって東福寺と号し、無事に入宋出来るよう祈願しました。
その後、守護之森の人々の帰依を受けて戒壇院(かいだんいん)及び東源寺を建立し、
京極大路の石仏前には、朱丹の山門を成就しこれを華厳(けごん)講究の道場と定め、
教法弘通(きょうほうぐづう)の大任を果たしました。
初代教念より二十三代教念までの系譜があります。

 


<龍顔山真光寺縁起>(真光寺蔵)概略
寛永元甲子(1624)年九月、高台院尼が御往生なさり(教念が)上洛した時、
西岸寺に兄の明舜(みょうしゅん)を訪ねました。
しかし、江州蒲生(こうしゅうがもう)に出かけていたので八幡(やわた)御堂で
ようやく会う事ができました。
その時、たまたまいらっしゃった准如上人(じゅんにょしょうにん)の御信教に接し
即座に真宗に改宗しました。
そして、華厳宗(けごんしゅう)東福寺を本山東大寺に返納し、
寛永7庚午(1630)年本願寺直末寺に列せられ龍顔山真光寺と別号を頂きました。

真光寺の住職の系図一代教念から十七嘉彦までの名前があります。


<手紙その1>(真光寺蔵)
この手紙は、真光寺様の九条家に対する献上物を受け入れることについての九条家の家司(けいし)(家の諸雑事をつかさどる人)松原縫殿(ぬいどの)からの返事です

概略
旧年、私(松原)が西岸寺に来た時、真光寺様が
九条殿に何か献上したい旨をお申し上げられになりましたが、
九条殿に申し上げましたところ
お受け取りになられるとのことです。
この件に関しましては、私がとり計るよう聞いております。
九条家の家司松原縫殿(ぬいどの) 有政より
        真光寺様

追伸 真光寺様からの献上品を受け取りに行きます時に
(本来なら九条家の返礼があるとよいのですが、かなわなかったので
変わりに)私(松原)がもち合わせているものがありますので、
進上いたします。お受け取り下さい。

 

<手紙その2>(真光寺蔵)
西岸寺の住職から真光寺様にあてた手紙です

概略
酉年四月十六日に九条家の御家族がいらっしゃっいました。
その後、また、閏(うるう)四月五日おいでになられて、
玉日姫御廟所(たまひひめごびょうしょ)の修復についてお尋ねになりました。

玉日姫御廟所(たまひひめごびょうしょ)を修復したい旨を申し上げますと、
白銀五十枚と、御勅命の御趣意書(ごちょくめいのごしゅいしょ)をいただきました。
また、このことを御門跡様(ごもんぜきさま)に申しあげますと、お喜びになられ、
御門跡様(ごもんぜきさま)よりも御寄附を頂戴いたしました。

その後、御門主様(ごもんしゅさま)にも大阪方面への勧進(かんじん)のための
御趣意書(しゅいしょ)に御署名をして頂き、大阪での勧進(かんじん)が順調に進んでいます。

真光寺様に早くお知らせしたかったのですが、忙しくて今になってしまいました。
上京された時に御勅命趣意書(ごちょくめいしゅいしょ)と拝領の品をお見せしますので、
ご覧になって下さい。


<高祖聖人御木像並び縁記一巻譲り状之事>(真光寺蔵)
西岸寺十八世覚円(かくえん)から真光寺様に親鸞聖人の御木像と縁起一巻をお譲りするということが書かれています。


概略

私(覚円・かくえん)が真光寺より遠く離れた西岸寺へ入住出来たのは佛祖の広恩です。
この恩に報いるために西岸寺伝来の御木像三体のうち、九十歳の御老体の御木像を真光寺へ譲ります。
然るにこの御木像は、御本山より賜った御真影と同じように門徒御教化に役立ててください。
   
   山城国紀伊郡深草(やましろのくにきいのこおりふかくさ)
      西岸寺十八世覚円(かくえん) 印
 寛政(かんせい)二年戌 
        八月十日
           西岸寺親類
         請人河州穂谷村 中尾善左江門父
                           □□(教円) 印
芸州加茂郡(げいしゅうかもぐん)
 川尻
  真光寺様

<親鸞聖人九十歳御老体の御木像ならびに証券>(真光寺蔵)
西岸寺から真光寺様へお譲りした親鸞聖人の御木像です。
画像では見えにくいのですが、裏に「南無阿弥陀仏愚禿善信(なむあみだぶつぐどぜんしん)」と彫刻されています。
明治九年に本山から発行された証券があります。

<高祖聖人御木像略縁起 -1>(真光寺蔵)
この略縁起には上記の譲り状に書かれている御木像の縁起が書かれています。
そして真光寺様と西岸寺が由緒のある間柄であるので、この御木像をお譲りするということが書かれています。
ほぼ同じ内容のものが二つあり、高祖聖人御木像略縁起 -1と高祖聖人御木像略縁起-2としています。
高祖聖人御木像略縁起 -1がオリジナルで、高祖聖人御木像略縁起-2は真光寺のご住職様が書かれたものだそうです
概略
この御木像は、弘長二年(壬戌)(聖人九十歳)の春に聖人が
弟子の有阿弥(ゆうあみ)へ下されたものです。
有阿弥(ゆうあみ)は、聖人が越後に配流された後(玉日姫にお仕えしていましたが、
玉日姫の死後)お供した弟子であり、
雪深い越後で、聖人と共に御教化の御苦労をなさった方でした。
熊坂(くまさか)という大難所では、氷が聖人の御足を傷つけ雪を真っ赤に染めました。
そのときに詠まれた歌
 白妙のあけの血しおに染みたるは 思う願いのかなうしるしぞ
またある時は、熊坂の峠で何も食べずに一夜を明かしたこともありました。
まるで八寒地獄(はっかんじごく)のような苦しみでしたが、
聖人は「たとえ雪の中に苦しむといえども信心了解(しんじんりょうげ)の人々は
如来の光明の御懐の中に住む身と思い、皆さん苦しい中にも歓びましょう」と懇ろに御教化なされました。
このように関東二十五年の御苦労は命も消えるかと思うほどでした。
今また、九十歳の御老体となられ御往生も近くなられたのを拝見して
有阿弥は末代(まつだい)の御門徒への形見として聖人のお姿を彫刻して残したいと聖人にお願いしました。
聖人はすぐに御彫刻なされ、裏に南無阿弥陀仏愚禿善信(なむあみだぶつぐとくぜんしん)と御銘をお入れになり、
有阿弥に下されました。
有阿弥がこの御木像を西岸寺に安置しておりましたが、
西岸寺と真光寺様は(覚円の入寺ということにより)ご縁があり、
このご縁により「聖人九十歳の御木像」を真光寺様へ授与されました。


<高祖聖人御木像略縁起-2>(真光寺蔵)
真光寺のご住職様が書かれたものだそうです。
高祖聖人御木像略縁起 -1とほぼ同内容です。

 

 

2、女人往生を説くために用いられたもの

<九相図>(西岸寺蔵)

九相図とは
インドの初期仏教から行われている修行に「不浄観想法」というものがあり、死んだ人間の様子を九種(または十種)=九相に分けて観想をし、人間は不浄であるということを想い人間の体に対する欲をなくしていこうとする修行です。『大智度論』や『摩訶止観』などに説かれています。 日本へは佛教伝来とともに入ってきて、日本の文化の中に受け入れられて様々な九相図が作られました。源信(浄土真宗の七高僧の一人)の『往生要集』「人道不浄相」などでも人の体の穢れを厭い、来世での極楽往生を求めるよう勧めている。 
西岸寺の九相図は甲南大学教授田中貴子先生によって調査、研究されています。今後の研究に期待するところです。

甲南大学教授田中貴子先生による絵解き










<能荘厳院殿玉日君御染筆略縁起> (西岸寺蔵)

概略:この略縁起には、玉日姫がお書きになられたという六字の名号について書かれていますが、「それよりこのかた六百有余歳連綿として山城の国深草の小御堂(こみどう)に安置し奉る」とあるので、玉日姫の亡くなられた頃を承元3年(1209年)とすると、この略縁起が作られたのは1800年(文政)の頃と思われます。これは、西岸寺の系図によると、龍田(19世)、見龍(20世)の時代です。現在、この六字の名号は行方不明です。本文:ここ爰に懸け奉る紺紙金泥六字の御尊号は辱(かたじけな)くも能荘厳院殿玉日君の御真筆なり。そもそ抑も比縁起を尋ね奉るに承元三年秋の中旬より玉日君聊(いささ)か御不例の気ましまし、自爾已来(それよりこのかた)唯、他力本願の貴きことをのべ演、称名怠りなく倶会一処の素懐を急がせ給ふ御有様なれば、常に随従し奉る白川の局、安佐姫(あさひめ)等、末期の御形身として女人往生の御姿をと乞ひ奉りしに吾身は五つの障りもてる女人の浅墓(あさはか)なさよ弥陀の誓ひによ頼ればこそ安養の浄土に参りなん。汝等も只、本願の一筋を頼み平生の本懐を遂げよと懇(ねんご)ろに御教化遊ばされ、過ぎし正月二日の夜、聖人の御尊容光明の赫耀(かくやく)たる中に忽(たちま)ち名号と化し給ふ御夢想ありしは、末世までも残し置くべき形見なりとて、御病床に在(ましま)しながら御筆を染めさせられし六字の御尊号なり。それより已来(このかた)六百有余歳連綿として山城の国深草の小御堂に安置し奉る。一天無二の御宝物なり。然れば女人の身は、各々我身々々の御形見ぞと恭敬礼拝して退散せられましょう

他に<法然上人絵伝>(西岸寺蔵)があります。


西岸寺に関する資料

<光明寺談義本>  (光明寺所蔵)

親鸞聖人が奈良の宇陀(田)におられるお母様のもとに有阿弥を遣わすといった内容が書かれています。

<能荘厳院殿玉日姫君御霊像ならびに御形見御名号略縁起> (京都女子大学図書館所蔵)


<親鸞聖人草鞋御木像略縁記>  (日文研蔵)

この略縁起は木版で現在でも何部か残っているようです。玉日姫亡き後、玉日姫にご給仕されていた田村光隆が親鸞聖人のお弟子となり「有阿弥」と名乗りました。そして親鸞聖人は性信坊、西佛坊、蓮位坊、有阿弥とともにご教化の旅をされたということがかかれています「南無阿弥陀仏愚禿善信(ぐとくぜんしん)」と裏にかかれた親鸞聖人の御木像の由来がかかれています。これは、西岸寺蔵の御木像ではないかと思われます。
本文:夫山城国紀伊郡深草西岸寺往古は  九條関白兼實公の花園にて祖師聖人北国 御下向の後、玉日君御隠住の地にて聖人入御の地也  噫祖師聖人左遷の宣旨を蒙玉ひ越後の国分に御下向あり御道中の浮難儀荒血山の大難所にて古も習ぬ草鞋にて御足は破れ流るる血は紅の如く 時に聖人御疲れのあまり一首を詠し玉ふ○越後なるあら血の山に行きつかれあしも血しほに染し計ぞ と詠し玉ひ消残る越路の雪に御足を痛め雨にぬれ風に争い御命も消る計の御苦労にて漸漸越後の国分に着せ玉ひ五年が間は御髪をも剃せ玉はず自愚禿と名乗玉ひて忍び忍びの御教化に配所の月を詠め玉ふ 然るに聖人御流罪の後、御臺玉日君に御給仕し奉る村田采女は聖人の御跡志たひ越後の国に下り聖人、御対顔をとげ奉り先達ものは涙にて玉日君御早世、 範意公の御別れ、禅定殿下の御往生の儀を申し上げ奉り涙にむせびければ、 聖人被仰けるは会者定離は常の習ひ老少不定は浮世の有様也。 今暫の別れなるぞ弥陀の浄土に至りぬれば、諸上善人倶会一所の楽をうれば汝悲事なかれと被仰○別るるといふ計にや昨日今日明日は逢見ぬ弥陀の浄土へと本意凡夫の誓約超世無上の本願他力回向の不思議、悪人摂取の断無残所。 念比に御教化故被遊ければ立所に一念発起平生業成の安心の受得し、 歓喜踊躍し、教行の涙にむせび御剃刀を願奉り、則御弟子と成玉ひ法名有阿弥と被下常隨給仕し奉る その後、建暦辛未年勅免宣旨を蒙り玉ひ、越後の国分を御立被遊けるに御教化を受し老若男女御別れを悲み涙とともに御共申けるに、古たの浦にて聖人被仰けるは、 皆々是より宿々へ帰り玉へ。名残は尽じ愛別離苦 譬予は此所にあらずとも如来は常に行者を離れ玉はざるとて一首詠し玉ふ○我なくと御法は尽きじこたの浦弥陀と衆生のあらん限りは と、口号み玉ひければ皆々歓喜の涙を流し御別れをかなしむゆへ返々御教化被遊、 夫より性信坊、西佛坊、蓮位坊、有阿弥諸とも御供にて雪深き浜道を杖を便りに歩み玉ふに、誠に氷は玉とつらぬき御足雪に埋れ玉ひ、笠をかたぶけ歩み玉ふに、 越後信濃の国境、雲を貫く大山あり。妙高山大多吉利小多吉利熊坂といふ、 鳥も通はぬ難所にて如何是を越え玉はんと御手を取参らせ熊坂に歩み掛らせ玉ふ。時に聖人峩々たる巖石踏玉へば草鞋通し御足破れ流る々血を見奉り有阿弥聖人へ被申上けるは、御身は一天の君に仕へ綾羅錦繍を御身にまとわせられ、 栄華にほこり栄耀に余らせらるべき御身を 剃髪染衣の御姿と成玉ひかる御苦労如何ぞや。偏に我ら如きの者を浄土へ導引玉はんがためかほどの御苦労をもいとひ玉はぬ御慈悲の難有さ、来世衆生はかかる御苦労の程をも知らずして過行事ほいなく残多し此御苦労の御姿をうつし奉り、来世の御門葉への御形見共成奉り度と御願被申上ければ、聖人その志深き事感じ思召御手づから御尊像を御彫刻被遊、則御寿像の御裏に南無阿弥陀仏愚禿善信と御銘を被遊○面影を世々に残して一向に弥陀にかしつく便りにもなれ と詠し玉ひて、有阿弥へ被下ければ難有頂戴し奉り是ぞ生身の弥陀如来と尊重し奉りその後聖人御帰洛之砌  蒙御意、深草花園御殿に一宇を結び此尊像を安置し奉る今の西岸寺是也。 聖人の御真影は関東北国御経廻御苦労の御寿像ゆへ草鞋御木像と号し奉る仍而略縁起如件