歴史
西岸寺は平安時代の末、当時の関白であった藤原忠通が建てたと伝えられる法性寺の小御堂が建っていたところで、忠通の子九条兼実もことのほかこの地を愛で花園御殿とも呼ばれました。後白河法皇もしばしばこの地に御幸されており、後に法皇の御製にちなんで西岸寺と号したと伝えられています。
九条兼実は法然上人に「阿弥陀仏は、結婚して世俗の生活をしている人も修行をしている僧侶も同じように救うというのならあなたのお弟子の僧侶の中からどなたか一人、私の娘玉日姫(たまひひめ)と結婚させて阿弥陀仏の救いが本物であるということを証明して下さい」とおっしゃられました。浄土真宗の開祖、親鸞聖人は六角堂で救世菩薩より夢告を受けたことから、兼実の娘玉日姫を妻として迎えられました。しかし親鸞聖人は法難により、承元元年(1207)この地より越後に流され、以来、玉日姫は、この小御堂を守り親鸞聖人の安否を気遣いながらこの地で亡くなられました。その後、玉日姫に仕えていた田村光隆(有阿弥1176~1269)は親鸞聖人の弟子となり、九条家より小御堂の寄進をうけ、西岸寺を開き玉日姫のお墓をお守りしました。
<本尊>
阿弥陀仏
<寺宝>
玉日姫御木像
玉日姫は父、九条兼実の願いにより、六角堂の救世菩薩の夢告を知っていた法然上人の命を受け親鸞聖人と結婚され、印信(範意)をもうけました。しかし、承元の法難により親鸞聖人は玉日姫をこの地に残して流罪の身になられ、玉日姫は親鸞聖人の帰りを待ちながらこの地でお亡くなりになられました。
本堂内陣には親鸞聖人絵像とともに玉日姫のご木像が安置されています。昭和22年の本堂の火災により失われてしまいましたが、救世菩薩と同じ如意輪の御天冠をかむり、十二単に緋の袴、右手には念数、左手は開蓮のお姿でした。そのお姿は、親鸞聖人夢告の救世菩薩の化身と考えられ、衆生に肉食妻帯の基本を示し、女人往生を示されたお方として古来より人々の信仰を集めてきました。
法然上人が、親鸞聖人と結婚なされた玉日姫をご覧になって「よき坊守」とおおせになられたことから、浄土真宗のお寺の奥さんのことを「坊守」(ぼうもり)と呼ぶようになりました。
その他、親鸞聖人ご自作と言われている草鞋竹杖御尊像や九条兼実の木像など多数あります 。
西岸寺の歴史についてもっと知りたい方は、西岸寺の資料館をご覧下さい。
<玉日姫御廟所>